液状不安(メモ)

ケヴィンがスピーチのテーマにしたという液状不安。

面白そうだなと思って、錆び付いた頭をフル回転してお勉強してみました。


澤井敦「読み換えられる不安 : ジグムント・バウマンの「不安の社会学」をめぐって」『法學研究』2013年

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00224504-20130728-0093.pdf?file_id=77961


(要点メモ)

人の絆やつながりが流動化する中、人々の心を覆っているのが「液状不安(Liquid Fear)」である。「液状(Liquid)」の意味するところは、その様相や構造が社会状況に応じて、次々と「読み換えられ」、変化していくということである。


 「恐れ」が対象に向けられるのに対して、「不安」は対象がない気分であり、その根源にあるのは「死」への不安である(ハイデガー)、人知を超えたものへの「宇宙的不安」(バフチン)などをバウマンも受け継いでいる。「未知」のものに対して人は不安を抱き、その究極が「死」である


死への不安、つまり人間の根本的な不確実性に対して、精神的な安定を得るためには不安緩和の仕組みが必要。例えば、ナショナリズム、性愛、宗教、出世、創作活動などは全て、象徴的な意味での不死性の獲得により、死やそれが呼び起こす不安を緩和する営みである(ベッカー)


人間の文化というものは、人間が死の不安の中で生きていくための仕掛けである。その仕掛けは歴史的・社会的に変化する。近代以前は主に宗教。この仕掛けには(a)個人的な不死性を提供するもの。(b)非個人的な実在の存続と耐久性への個人的な貢献を約束するもの、がある。


(a)は有名人になって歴史に名を残すということだが、それができるのは一部の人だけ。その他大勢にできるのは(b)非個人的なもの(国家とか、企業、家など)に貢献すること。その非個人的なものが存続する限り、その中で生き続けていると考えられる。


1990年代以降のリキッド・モダンの社会では特定の社会状況を念頭に置いた行動様式や考え方が固定・共有され、持続的なものとなる前に、その前提となる集団等が先に変化してしまうため、従来の不安緩和戦略が取れない。リキッド・モダン社会では「不安の個人化」と「他者への不安」が起きている。

 

「個人化」は近代化の過程でも起きているが、初期近代においては伝統的共同体から「脱埋め込み」された個人は、階級やジェンダーなどの集団的カテゴリーへ「再埋め込み」されることを望み、その場所に不足もなかった。現代(リキッド・モダン)ではその場所そのものが溶解。


初期近代社会では「身分」から「階級」などへと位置づけが変わっただけだ(場所=ベッドはたくさんあった)が、リキッド・モダンの社会では、再埋め込みされるべき位置そのものが流動化して、個人は脱埋め込み化されたまま生きるしかない。場所は椅子取りゲームの椅子になった)


リキッド・モダンは自己決定・自己責任の社会である。資源の有無にかかわらず、自律的な個人として「権利」を与えられる反面貧困などの問題は、たとえそれが構造的に生み出されていたとしても、個人の責任とされ、連帯して解決していくのではなく、個々人が解決すべき問題と見なされる。


リキッド・モダンは不安に個人で対処するしかないが、誰もが対処するに十分な資源を持っているわけではないため、不安緩和戦略も不安定化している。また、個人化=人々の関係性や紐帯の弱体化→「他者への不安」の増大→さらに個人化=関係性や紐帯の弱体化…という悪循環に陥っている。


まとめると、リキッド・モダンとは

(1)個人が一体化しようとする「永遠なるもの」(個人的名声・国家・企業など)自体が流動化する。

(2)個人化により、不安が個人的に対処されるものとなる。


リキッド・モダンの社会の新しい戦略は「死の周縁化」である。永続性(不死性)の価値を軽視し、否定する。重要なものが、「その後」から「現在の瞬間」になる。死への不安を「死」から切り離して、生活の周縁へと追いやることで、死への不安を生活の駆動力へと変換する戦略である。


「死の周縁化」戦略には、「死の脱構築」と「死の凡庸化」がある。


(1)「死の脱構築」→不安のリスク化

対抗できない死の運命を、対処可能なリスクに分解する。その、リスクに不断に対処し続けている限り、死の不安をひとまず考えなくて済む。しかし、将来的なリスク候補は無数にあるので、停止しないで絶えず働き続ける必要がある。


それは同時にまた、際限のないリスクに対処するための商品を際限なく消費することにつながる。消費社会は、消費者不足にならないために、不安を定期的に煽り、刺激する。


(2)「死の凡庸化」→消費される不安

死を日々リハーサルすることで、凡庸なものにする戦略。情報・消費社会であるLMでは、情報は次々に新しい物に取って代わられ、消費や生活の様相も変化し、人間関係も永続的ではない。「小さな死」が永遠に繰り返され、死/不死の二項対立は意味を失う。


繰り返されるリハーサルの結果、根本的な喪失である「死」も、他の幾多の喪失とさほど変わらない、凡庸な喪失のひとつとして感じられるようになる。死への不安は、次々廃棄され更新され消費される商品や、生活形態の中で希薄化され、消散する。


しかし、誰しもがこのような戦略を自在に運用できるわけではない。

例:ハリケーン・カトリーナの犠牲者の多くはは貧困層であった。

不安への対処能力には社会的格差がある。そのため不安の程度にも格差がある。不安の量は減らず、むしろ増大しており、それが社会的に不平等な形で再配分されている。


とはいえ「勝ち組」であっても不安にとらわれるのは同じだ。人々は不安回避の戦略を停止することはできない。

速すぎる変化は、今日は価値があったものの価値を下げ、「廃棄物」としてしまう。人々は、自分が取り残され、無用なものとみなされ、「廃棄」されてしまう不安を抱えている。


不安をやり過ごすための戦略を運用したとしても、なおかつ排除されることへの漠然とした不安がLMの社会を全体として覆っている。だからこそ、不安を緩和するためのさらなる社会的な仕掛けが作動し始める。


過去にも、古い生活条件が急速に変化した時、そこで生じる不安感を「異物」を排除することで解消するという仕組みがたびたび発動してきた。例:ホロコースト→近代化による過去の確実性が溶解していく不安感→境界をまたいで移動するユダヤ人を排除→境界を画定→不安感や恐れを解消。


現代においては、グローバリゼーションの負の効果が、世界レベルでの貧困層の増大や生活基盤の不安定化として現れ、漠然とした不安が広がっている。それに対抗するのは一個人はもちろん、国家であっても困難である。我々は大きな力に翻弄され、無力感を抱くしかない。


この対処困難な社会の「不安定性」への不安は、より対処しやすい個人の「安全性」(外からの脅威)への不安へと読み換えられている。個人は、自身の安全・健康や、住居、地域などの安全に目を向け、それを脅かすリスクに際限なく対処していくことで、不安を解消しようとする。


これは時に貧困層をを社会の秩序から排除しようとする傾向として現れる。貧困層は我々自身も排除されてしまうかもしれないという不安を体現するもので、見えなくさせることで、不安を遠ざけようとする。しかし、このような不安解消は一時的で、私たちのリキッド・モダンな生活は相変わらず不安定である。


このようなリスクへの対処では、根本的な不安(死への不安と、その現代的な現れである排除される不安)を解消できないため、不安に対して際限なく対処していかなければならない。不安をリスクとしてとらえ、商品やサービスを消費することは、不安をさらに煽る。不安は際限なく自己増殖していく。


不安→自己防衛的行動→脅威を実感→さらなる不安→自己防衛行動…という悪循環が続く。不安感に対する我々の反応こそが幽霊に生身の肉体を与えるのである。


人間存在の不確定性(死)や社会の不確実性と戦うことでは、安定性を手に入れられない。むしろそうした不確実性や不確定性をはっきりと認識し、それらが生み出す結果(不安に対処するための社会現象)に真正面から向き合うことが必要だ。それが社会学の課題。(以上)


うんうん、と百万回ぐらい頷くところもあり、まだピンとこないところもあり…。

次はバウマンの著作にもチャレンジしてみたいなと思います。

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